父ヨスの厳しい教育とマックス自身の貪欲さ。新時代のF1王者フェルスタッペンを生んだキャリア育成回顧集
10月9日に3年ぶり開催されたF1日本GPでは、今シーズン圧倒的な強さを誇ってきたレッドブルのマックス・フェルスタッペンがドライバーズ・チャンピオンシップを決定。雨に見舞われた短縮レースとはいえ、レースを圧倒し昨年に続き2連覇を成し遂げたその走りは、F1におけるフェルスタッペン時代の幕開けを感じさせた。
そのフェルスタッペン2連覇を記念して、『F1速報』では臨時増刊「2022フェルスタッペン、ワールドチャンピオン獲得記念号」を刊行。F1界を革命するフェルスタッペンのキャリアとその優れた天性を特集している。今回は、そのなかから父親であり元F1ドライバーであるヨス・フェルスタッペンによるマックスのキャリア育成についての回顧集をお届けする。
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マックス・フェルスタッペンが2年連続で世界チャンピオンを獲得した。彼がいかに若くしてF1で成功を収めたか、多くの人はもはや気にしていないかもしれない。2015年のオーストラリアGPに最年少でF1デビューを果たした時、彼のフォーミュラカーでのレース経験はわずか47戦に過ぎないものだった。
17歳と166日という若手ドライバーの起用には、当時多くの批判が寄せられた。曰く「他のドライバーに危険である」とか、「この次はレーシングカートから直接F1にステップアップする者が出てくるようになるのか?」などなど。フェルスタッペンのデビューをきっかけに、FIAはスーパーライセンス取得に必要なポイントシステムを導入し、同時にF1に上がる最低年齢を18歳以上と規定するにいたった。
この一連の出来事で思い出すのは、そのさらに14年前、2001年のオーストラリアGPだ。ザウバーからキミ・ライコネンがF1デビューした時も、同様の批判と懸念が持ち上がったものだった。ライコネンがF1に上がるまでに走ったレースは実に23戦に過ぎず、それもフォーミュラ・フォードやフォーミュラ・ルノーといったジュニア・フォーミュラのみ。F3すら経験していなかったのだ。
もちろんライコネンもフェルスタッペンも、デビューレースの1戦を走っただけで自身がF1ドライバーとしてふさわしいことを証明してみせた。あたかも10年走り続けてきたドライバーかのようなその走りに、批判の矛先はどこか別のことへと移っていった。
“アイスマン”として愛されるようになったライコネンがF1デビューを果たしたその年、アロウズで走っていた父ヨスに連れられ幼いフェルスタッペンは初めてパドックを訪れている。まだ小さな子どもが生意気そうに周囲を見まわす姿を見て、「なんだかもうパドックの一員みたいだな」と妙に感心したのを覚えている。
あれから21年、F1で通算32勝(第18戦日本GP時点)を挙げ、フェルスタッペンは2度の世界チャンピオンを獲得するまでに成長した。彼を信奉する悪名高き“オレンジアーミー”が世界中を追いかけてまわり、馬鹿騒ぎが大好きなパーティーアニマルが大盛り上がりで応援する姿は、もはや中継でおなじみのシーンとなっている。
■年上相手に最初は苦戦
フェルスタッペンの活躍についてはさまざまなかたちで報道されているが、今の成功を理解するためには、彼がF1に上がる前にどのように過ごしてきたかについて語る必要がある。彼のバックグラウンドをより深く知るには、父親であるヨスに話を聞くのが一番だ。
ヨスは今年50歳。息子がどのようにレースを始めたかについてたずねると、開口一番に飛び出したのは、「主導権は最初からマックスにあったよ」という言葉だった。
「4歳の時、あいつは自分からカートをやりたいって言いだしたんだ。もちろん、私もカートをやらせたいと思ってはいたが、まあ6歳になってからだな、とのんきに構えていた。ところがあいつは『今すぐに乗りたい』って言い張って、それで最初は同年齢のキッズと一緒に走るようになったわけだが、2年もするとライバルは10歳ぐらいの子になっていた」
「もちろん、年上相手に最初は苦戦した。私たちが通っていたのはベルギーにあるゲンクというコースだったんだが、ある日そこが閉まっていたので別のコースに行ったんだよ。ほとんど知らないコースだった。ところが、走り出してみたらいきなり速いんだ。その時に思ったよ。走行ラインについてはもう、あれこれ教え込む必要はないなと。その後いつものゲンクに戻った時、あいつが大きく進化していたことがすぐに分かったよ」
それでも走りに行くたびに、ヨスはできる限りのことを息子に教え込んだ。明確な目的を定め、具体的に取り組んだ練習法はいくつでも挙げられる。
「当時、走っていたのはベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)でだけだったから、マックスがイタリアやイギリス、あるいはフランスの連中を相手にどう戦うのか、まったく予想もつかなかった。当時は国際的なレースに出られるのは、12歳になってからだったからね」
「とにかくたくさんのカートに乗せた。ジュニア用からシニア用、普通のカート、ミッションカートなどだ。多ければ多いほどいい。それからセッティングとオーバーテイクの大切さを繰り返し言い聞かせた。私が重視していたのは、自分のレーシングマシンについて細部まで理解することだった。オーバーテイクの練習は、それこそエンドレスで繰り返したよ。何時間もぶっとおしでマックスが走るのを見ていたが、オーバーテイクするのにタイムロスしていたら、それについて話し合い、私は『お前は前のマシンを抜くことはできるが、そこでタイムロスしちゃダメだ』と、何度も言って聞かせた。
走りの精度をさらに磨くために、コース上で抜いていいポイントと、抜いてはいけないポイントを決めたこともあった。簡単に抜けるポイントでは抜くな、ってね。普通あそこじゃ抜かないだろうというポイントで抜かせる練習だったんだが、私はこれがマックスがF1に行けた理由のひとつだと思う。時にとんでもないところでオーバーテイクを仕掛けるマックスを見てみんな驚くだろう? あいつにとっては10年以上も練習し続けてきたことなんだよ」
才能は神から与えられるものだ。レーシングドライバーの多くは、何年練習しようがフェルスタッペンのレベルに達することはできないだろう。そしてもうひとつ大切なものが精神力だ。“ヤング”フェルスタッペンは、ほとんどの場合、きわめて落ち着いているように見える。ヨスが続ける。
「あいつは小さい頃からそうだった。冷静でいられるということは、学んで身につけられるものではない。マックスに厳しく接していたことは自分でもよく分かっているが、あいつは強い。しっかりと受け止めてくれたよ」
ヨスがいかに厳しく息子に接していたかを物語る、こんなエピソードがある。ある時、その言動から「全力で取り組んでいないじゃないか!」と怒った父は、高速のサービスエリアに息子を置き去りにしたことがある。父の怒りを見たフェルスタッペンは、自分の言動を振り返えらざるを得なかった。もちろん後で息子を迎えに戻っている。時間をかけて考えさせたかったのだ。今のフェルスタッペンを見る限り、この時の経験がしっかりと身についていると言っていい。ヨスの話に戻ろう。
「たしかに私はマックスにはずいぶん厳しかった。でもそれは、あいつなら受け止められると信じていたからだ。私から直接言うことはなかったが、マックスのメンタルの強さには驚かされたものだよ。そして勝利を重ねるにつれて、あいつは自信を深めていった」
それでもヨスは、最終的にフェルスタッペンがF1に行けるかどうかは確信が持てなかったという。「2014年の6月がターニングポイントだ。マックスはF3で優勝を重ねていたが、私にはそのシーズンを走り切るだけの資金がない、そんな状況だったんだ。そこへまさに最適な人物から声がかかった」
それがル・マンウイナーであり、レッドブルレーシングのモータースポーツアドバイザーであるヘルムート・マルコだった。この話題になった時、ヨスはにやりと笑って付け加えた。「彼のような人物に、マックスの才能をどうこう説明する必要はないだろう?」
その時、フェルスタッペンにはメルセデスドライバーとなる選択肢もあったが、彼の才能をまずはGP2(現在のFIA-F2)で磨こうと考えたチーム代表のトト・ウォルフは、リザーブドライバーのシートをオファーした。そこにマルコが「すぐにトロロッソのレーシングシートを用意する」とオファーしたのだ。そして翌15年、彼はF1デビューを果たすのである。
■変わらない学びへの貪欲さ
攻める時も守りに徹する時も、フェルスタッペンはF1マシンをあたかもレーシングカートのように操ってライバルを打ちのめし、ファンを魅了する。「とてもあんなことはできない」と、あきらめ顔で認めざるを得ないドライバーすらいる。だがヨスは言う。「マックスは単に、何年も身につけてきたことを実行しているだけだ。常識の枠をいったん外して、他のドライバーがやらないようなことをする。敵を観察して弱点を見つけ、正しくそこを攻めるんだ」
才能と積み重ねてきたトレーニングに加えて、彼には道義と誠実さがある、そう評価するのはレッドブルのチーム代表、クリスチャン・ホーナーだ。
「あれほどストレートなドライバーはなかなかいないね。彼はすべてをテーブルに並べ、なんでもオープンにして、真摯に取り組む。勝つことを心の底から強く望んでいるからだ。グランプリドライバーでも、あんな男はそうそういない。きわめて意欲的で、誰の声も真摯に受け止める。F1のトップスターとして栄光や魅惑を楽しむドライバーが多いなかで、彼はむしろ家で過ごす時間を選ぶタイプなんだ」
F1のトップアクターであるマックス・フェルスタッペンからは、彼がハッピーな時も不機嫌な時も、そのままの姿が我々に伝わってくる。これこそ本物の証であり、だからこそファンは魅了されるのだ。
そして彼は嘘を嫌う。2019年のメキシコGPでイエローフラッグを見落とした時、彼は素直にそれを認めた。もちろん、しばし動揺はしたものの、すぐに肩をすくめていつもの彼に戻っていた。
「起きたことを変えられないなら、そこから学び、前に進むしかない」これが彼の信条であり、ワールドチャンピオン争奪戦においても重要な意味を持っている。2021年のルイス・ハミルトンとの戦いでは、両者はたびたびコース上で交錯する、激しいせめぎ合いを見せていた。ただ、ライバルにつてはこう語っている。
「ルイスとのライバル関係については多くのことが語られたが、僕自身は彼とは何も問題はない。どちらかというとチーム同士のライバル関係の方が、僕とハミルトンの関係よりもよっぽどシビアだったよね?」
では、今年のシャルル・ルクレールを相手にした戦いではどうか。ここで思い出すのは、若き日のフェルスタッペンとルクレールがレーシングカートで戦った12年の動画だ。ふたりが競り合い、どちらも危険走行で失格となった一戦だが、そのなかでフェルスタッペンは激しい怒りを露わにしていた。
「僕はリードしていたんだ。彼は抜こうとして僕を押した。僕も押し返して、また彼が押してきて、僕はコースから押し出された。あれはフェアじゃない!」
これに対し、ルクレールはこう語っている。「マックスと何があったかって? 何もないよ。ただのレーシングインシデントさ」
カートを卒業し、それぞれにフォーミュラへの道を歩んだふたりのキャリアは分岐したが、2022年の今年、F1でワールドチャンピオンを争う立場になった。フェルスタッペンは言う。「僕たちふたりは互いに相手を尊重している」と。かつて激しくぶつかり合ったふたりは、息を飲むような一線を越えるか越えないかのギリギリのバトルを繰り広げた。フェルスタッペンが“学び、前に”進んできたことの表れと言えるだろう。
ホーナーは言う。「今シーズン、シャルルとマックスの間には多くのバトルがあった。見てのとおりハードなバトルだが、最後の一線でフェアな戦いにとどまっている。私から見ればこれは、ふたりが相手を尊重しているという最大の印だね。そして今後10年、F1で新しい世代のドライバーが世界タイトルを争う時の参考になるだろうとすら思っている。そう考えれば、F1の将来は明るいと思わないかい?」
若き王者はいまだ25歳。成長曲線は今なお、強く上昇を続けている。
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F1速報臨時増刊『2022フェルスタッペン、ワールドチャンピオン獲得記念号』では、今回の談話以外にも、本人の世界王者決定時の記者会見をノーカットで掲載。レッドブル・レーシング代表のクリスチャン・ホーナーの記者会見コメントをはじめ、同モータースポーツアドバイザーのヘルムート・マルコ、HRC社長の渡辺康治、四輪開発部長の浅木泰昭の独占インタビューを特集している。
そして、マックス・フェルスタッペンの4輪レースキャリア総覧、日本GPの対シャルル・ルクレールとのバトルデータなども企画し、感動のフィナーレとなった今年の日本GPの魅力を余すところなくお伝えする。
『2022フェルスタッペン、ワールドチャンピオン獲得記念号』は10月20日(木)に緊急発売。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12541)まで。
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