【鈴鹿F1優勝偉人伝/9~11】パトレーゼ、バリチェロ、ボッタス。“ナンバー2”と呼ばれた男たちの勝利
ナンバー2ドライバー。それは契約で決まっている場合もあるが、シーズンの流れのなかで成績が決める、そんな印象も強い。いずれにしても、そう呼ばれた者にとって心地よいワードでないことは確かだ。チーム内の序列における下位を示す用語なのだから。
しかし、鈴鹿サーキットでのF1日本GPではナンバー2(と目された者)が勝利を得たことも何度かある。ここに紹介する3人は、そうした状況下で鈴鹿を制し、意地や矜持、底力を見せてくれた者たちだ。
(※本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)
■1992年ウイナー:リカルド・パトレーゼ
1992年はウイリアムズ・ルノーがシーズンを席巻し、チームのコンストラクターズタイトルと“エース”ナイジェル・マンセルのドライバーズタイトルは早い段階で決まっていた。鈴鹿での日本GPは、6年目にして初めて、どちらのタイトル争いも決着後という完全消化試合の状況で開催を迎える。
パトレーゼは前年の1991年は僚友マンセルとそれほど大きな差はない位置にいたはずだが、この1992年、マシンがアクティブサスペンション装備のFW14Bに進化し差が開いた。1991年は優勝も2回していたのに、1992年は鈴鹿の前まで0勝。同じ最強マシンに乗っているマンセルはすでに9勝しているのに……。
年間ランキングでもパトレーゼは苦戦中だった。アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)とミハエル・シューマッハー(ベネトン・フォード)に遅れをとって、鈴鹿前の時点では4位。FW14Bなのに……。
鈴鹿でもウイリアムズ・ルノーは速い。マンセルが首位、パトレーゼが2番手で、53周の決勝レースは後半を迎える。するとマンセルが、36周目のコース上でパトレーゼを待って先頭に出してやるという行動に出た。パトレーゼのシリーズ2位争いの状況を考慮しての“援護”だったとみられる。
パトレーゼに譲ったのに、すぐ後ろで追い回すように走っていたのも実にマンセルらしかったが、終盤45周目、1992年王者はマシントラブルでリタイアしてしまう。そしてパトレーゼは待望のシーズン初優勝を飾り、シリーズ2位に浮上するのだった(最終的にもシリーズ2位を確保し、ウイリアムズは1992年を完全制覇)。
パトレーゼを前に出したあとのことだったとはいえ、前戦までリタイアわずか2回だった王者マンセルが止まってしまったレースをしっかりと締め、パトレーゼはチームに節目の年間10勝目をもたらす格好になった。当時のF1最多出走記録保持者であり、チームを支える名脇役であった男の意地を見たように思える勝利だった。
パトレーゼは翌1993年をベネトンで走って引退。この1992年の鈴鹿初制覇がF1最後の勝利(通算6勝目)になっている。
■2003年ウイナー:ルーベンス・バリチェロ
最終戦として開催された2003年のF1日本GP。ドライバーズチャンピオンシップはミハエル・シューマッハー(フェラーリ)がキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)をリードして鈴鹿を迎えていた。
ライコネン逆転戴冠となる唯一のシナリオは、自身優勝かつシューマッハー無得点(当時9位以下)という厳しいものではあったが、当時シングルカーアタックだった予選に雨が味付けを加え、ライコネンが8番グリッド、シューマッハーが14番グリッドという、ちょっとスリリングになりそうな状況が生まれる。
ポールポジションを得たのはフェラーリのナンバー2、バリチェロだった。彼がすんなり勝てば、シューマッハー6度目のタイトル(当時新記録)は問題なく決まる。責任重大である。
決勝レース終盤、バリチェロは先頭を快走していた。2~3番手はライコネン&デイビッド・クルサードのマクラーレン勢。シューマッハーは一時最後尾という波乱万丈なレース展開ながら、8番手に位置している。
仮にバリチェロが止まったり、大きく順位を下げたりしてライコネンに優勝されても、シューマッハーは無事に得点できるポジションにいたわけだ。この段階でライコネン逆転戴冠には“2アクション”必要な状況であり、ほとんど無理にはなっていた。だが、バリチェロがトップを走っていることがシューマッハーに与えた安心感は小さくなかったはずである。
また、コンストラクターズタイトルはフェラーリとウイリアムズBMWの争いで、こちらは追うウイリアムズが日本GP終盤は無得点確定的な状況になっており、フェラーリの王座もやはり、ほぼ決まりつつあった。
苦しんでつかんだタイトル、最後の決め手は“ナンバー2”バリチェロの鈴鹿初制覇だった。ジャン・トッド、ロス・ブラウン、シューマッハーらが中心になって築いた歴代最強期の“スクーデリア”にタイトル獲得の瞬間は数多くあるが、ある意味で最も喜び深かったレースはこの2003年日本GPだったのかもしれない。シューマッハーがレース後、歓喜の大暴れをしたという報告が届いている。
決めるところで決めたバリチェロ。その姿には、いざとなればナンバー1の代わりもできる完璧なナンバー2という任務を遂行する仕事人、その矜持とも呼べるようなものが感じられた。
■2019年ウイナー:バルテリ・ボッタス
2017~2021年の5シーズンをメルセデスで過ごしたボッタスは、その間に通算で10勝を記録している。年間平均2勝。チームはこの間、コンストラクターズタイトルを手放すことがなかった。充分に速いが、エースを本格的に脅かすほどではない。チームとルイス・ハミルトンにとってボッタスは理想のナンバー2だったかもしれない。
そんなボッタスが、2019年に鈴鹿16人目のF1ウイナーになる。台風の影響で日曜午前実施になった予選ではフェラーリが1-2を獲り、メルセデスはボッタス、ハミルトンの順でグリッド2列目発進に。しかしスタートでは、うまくいかないフェラーリ勢をボッタスが外から一気にかわして先頭に躍り出る。
ターン2ではシャルル・ルクレール(フェラーリ)とマックス・フェルスタッペン(レッドブル・ホンダ)の絡みもあったオープニングラップを終えて、首位はボッタス。一方のハミルトンは4番手だ。
予選でハミルトンの前を獲り、スタートで先頭に立ち、オープニングラップで僚友と3ポジション差になったことはボッタスにとって大きかっただろう(マシンを傷めていて3周目にはピットインするルクレールが3番手にいたので、実質はハミルトンと2ポジション差)。
このレース、メルセデスがハミルトンを優先するつもりなら、ハミルトンを前にしてゴールを迎えることは不可能ではなかったと思われる展開だった。元来の戦略云々の話もあるが、それ以前に、たとえばハミルトンが終盤42周目に2度目のタイヤ交換をしなかったとしたら、先頭ハミルトン、2番手ボッタスの順で1-2できていたのではないか(タイヤはもたせられたと思うが……?)。
しかしタイトル争いがほぼ決着しているなか、メルセデスは“平等”にこだわった(ように見えた)。予選とスタートで先行していたボッタスの勝機をつぶすような策を採ってまで1-2には固執しなかった(と思える)。
レースはボッタス優勝、ハミルトン3位で決着し、メルセデスのコンストラクターズタイトル獲得が決定、ドライバーズタイトルの行方もハミルトンとボッタスに可能性が絞られている(もちろんハミルトン圧倒的有利、2戦後に戴冠決定)。
ボッタスは鈴鹿初制覇の喜びをこう語った。
「このコースでの追い抜きは難しい。だからスタートでトップに立つことを肝に銘じていたんだ。うまくいって嬉しいよ。鈴鹿はお気に入りのコースだったけど、この勝利でさらに好きになった」
ここぞのシーンで見せた集中力は、ボッタスの底力、その証明のようだった。
今季2022年はアルファロメオのナンバー1として鈴鹿にやってくる“ディフェンディング・ウイナー”ボッタス。再び鈴鹿を制すのはマシン的に難しいと思うが、あの勝利でさらに好きになった鈴鹿で、あのころとは違って(ある意味では)気楽で大らかに走れる今、鈴鹿優勝偉人のひとりとして、誇りに満ちた勇壮な走りを見せてほしい。
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