タキ井上のF1参戦を実現させた史上最も優秀なマネージャー【タキ井上が語る敏腕F1マネージャー/最終回:前編】

 

 1994年の日本GPでF1デビューを果たし、1995年には日本人4人目のフルタイムF1ドライバーとなった“タキ井上”こと井上隆智穂。F1引退後、さまざまなかたちでレーシングドライバーのマネジメントに携わったタキ井上が、敏腕F1マネージャーたちについて語るautosport web Premium連載『タキ井上が語る敏腕F1マネージャー』。今回はいよいよ最終回・前編です。より多くの方にお読みいただけるよう、前編は特別無料公開でお届けいたします。

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 久々の掲載ながら本稿も今回で最終回を迎える。今回はF1史上、最も優秀なドライバーマネージャーを取り上げたい。もちろん、その名はタキ井上!

 ……と言いたいのはやまやまだし、もしかすると一部の読者はタキ井上の名前を期待されていたかもしれない(汗)。しかし、神に誓ってそれはない! では、いったい誰なのか?

 それは元レーシングドライバーで現在67歳のイギリス人デイビッド・シアーズ! 「え? 誰それ?」というオートスポーツweb読者の反応も当然かもしれない(汗)。ということでまずは彼とタキ井上の付き合い、そしてシーアズの素性というか彼の驚くような家柄を読者のみなさんには知っていただきたいと思う。

 タキ井上がシアーズに自分の将来を任せたのは、おそらく1987年だったと記憶している。当時の僕はフォーミュラカーレースの入門カテゴリーにあたる、イギリス・フォーミュラ・フォード1600(イギリスFF1600)選手権になけなしのお金で参戦していた。しかし、東洋の島国から大きな夢を見て渡英したタキ井上は、当時参戦していた某イギリスFF1600チームに“しっかり”と騙されていたのである(汗)。

 意気消沈している僕に声を掛けてくれたのが、1986年にイギリスのジム・ラッセル・レーシング・スクールで学んでいたころに知り合ったらしいシアーズだった。彼は、「そんなチームは辞めてウチのチームで走れよ」と進言してくれた。ちなみに当時の彼は現役レーシングドライバーでありながらも、イギリスFF1600を活動主体とするレーシングチームを立ち上げてホヤホヤの時期。もし、彼に出会わなかったら渡英した多くの日本人ドライバーと同様に、タキ井上も騙されたままトボトボ帰国するハメになっていたはずだ(汗)。

イギリスFF1600に参戦する井上隆智穂と、チームを率いたデイビッド・シアーズ
イギリスFF1600に参戦する井上隆智穂と、チームを率いたデイビッド・シアーズ

 1987年はシーズン途中で彼のチームへ移りイギリスFF1600を戦った。シーズン終盤になってシアーズと1988年シーズンに関して話したところ、イギリス・フォーミュラ・フォード2000(イギリスFF2000)のクルマを手に入れてイギリスFF2000選手権にも参戦するという。なんでも、1987年のイギリスFF2000とヨーロッパFF2000でのちのF1ドライバーとなるJJレートを擁してダブルタイトルを獲得したパシフィックレーシングが、スポンサーであるマールボロとともに1988年はイギリスF3選手権に参戦するので、必然的に手放すイギリスFF2000のクルマを彼が買う算段を取り付けたらしかった。さらにそのイギリスFF2000のナンバー1ドライバーとして、パシフィック・レーシングはのちにキミ・ライコネンのドライバーマネージャーとなるスティーブ・ロバートソンを走らせるのである。

 もっとも、タキ井上はそのイギリスFF2000ではなくイギリスFF1600でシアーズとともに1988年を戦い、1989年にはイギリスF3選手権参戦を望んでいた。そんなこんなおぼろげながらも将来の話を彼としながら迎えようとしていた、1988年最後の祭典フォーミュラ・フォード・フェスティバル(FFF)。僕はシアーズに、「お金がないけれどFFFに出られないのかな?」とお願いした。もちろん、「お金が無ければ出られないよ」というツレない返事だったのは言うまでもない。

1987年イギリス・フォーミュラ・フォード1600のオウルトンパーク戦。4号車はエディ・アーバイン(バンディーメン・レーシング)
1987年イギリス・フォーミュラ・フォード1600のオウルトンパーク戦。4号車はエディ・アーバイン(バンディーメン・レーシング)

 実のところ、僕はFFFに出ようと思えば出られた。FFF参戦に必要な3000ポンド(当時の為替レートで約68万円)は懐にあったのだ。しかし、それは別のところで使いたかった。僕は“思い出作り”も兼ねて、なんとしてもイギリスF3のクルマを運転したかった。そして実際、トヨタエンジンを搭載するアルゴチームのラルトRT32というF3マシンで、2日間のテスト参加を叶えた。あのとき同じサーキットで、のちにティレルF1やフェラーリF1のドライバーとなるミカ・サロがアラン・ドッキング・レーシングのF3マシンでテストしていた。で、「僕のほうがぜーんぜん速いし、アイツもたいしたことねーなぁ」と思っていたわけであって、そうしたらサロは最後の最後、キャメルカラーのF3マシンを全損させてしまった記憶がある。

 ところで1987~1988年当時の僕は、イギリスでB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト/安価な宿)に泊まったりアパートを借りたりするお金も無駄にしたくは無かったのでシアーズ家に居候していた。シアーズには、「来年(1989年)帰ってくるから」と言い残してタキ井上は日本へ戻った。そして日本へ戻るときには、大きなトラベルラゲッジを彼の家に置きっぱなしだった記憶がある。その理由は、必ず2週間ほどで戻ってくるという自分を信じていることの証としてであった。しかし、人生とは予定どおりに進むわけもなく、私物を詰め込んだ辛子色したサムソナイト社のトラベルラゲッジは、いまでも彼の家に置いたままだ。で、いつかそのトラベルバゲッジの“タイムカプセル”を開けるイベントを開催しようと、連絡を取るたびにシアーズは提案してくるのだが、いったい何が出てくるのか怖くてさすがのタキ井上も首を縦に振れない(汗)。

 話を戻すと、1988年末に胸を張って帰国後、日本でスポンサーを探してくれていた協力者に会ったら、1989年にイギリスF3を戦えるような資金など集まっていないという。「え? 5000〜6000万円は余裕という話は……」(汗)。結局、僕はレーシングドライバーを続けられないという状況に陥り、自動車レース雑誌の使い走りという立場に甘んじた時期もあった。それでもなんとか資金を掻き集めて1990年からの全日本F3選手権参戦を叶えたけれど、結果4年も日本で過ごすハメになり、ようやくヨーロッパへ戻れたのは1994年だった。

井上隆智穂が日本帰国中の1990年、ル・マン24時間でアルファ・ポルシェ962Cを駆り3位という成績を残したデイビッド・シアーズ(左)。チームメイトはティフ・ニーデルとアンソニー・リード
井上隆智穂が日本帰国中の1990年、ル・マン24時間でアルファ・ポルシェ962Cを駆り3位という成績を残したデイビッド・シアーズ(左)。チームメイトはティフ・ニーデルとアンソニー・リード

■「よし! スーパーチームを作ってやる!」

 本来であれば、1993年の全日本F3で最高位4位/ドライバーズランキング9位の僕にとって、次なるステップは全日本F3000選手権であったのかもしれない。しかし、全日本F3へ参戦する際、タキ井上は“日本の”自動車レース村”にへきえきとしたので、その後の全日本F3000参戦にはあまり積極的じゃなかった。「どこの馬の骨とも分からないヤツにシャシーは売れない」と、当時の全日本F3でラルトやレイナード全盛期にあり、その販売を一手に引き受けていたル・マン商会に販売拒否され、仕方なく僕はイタリア・ダラーラのF3シャシーについて日本で独占販売権を手に入れるとともにそれを走らせた。

 また、「どこの馬の骨とも分からないヤツにエンジンは供給できない」と、当時の全日本F3で僕を排除する動きがあったのは事実だ。唯一、戸田レーシングの戸田幸男さんが無限エンジンの供給を快諾してくれたし、シャシーのメンテナンスも元F1チームのメカニックだった藤池省吉さんが面倒見てくれたから、タキ井上の日本での自動車レース活動が可能となっていた。

1993年7月18日にイタリア・シチリア島で開催された国際F3000選手権第4戦ペルグーサ
1993年7月18日にイタリア・シチリア島で開催された国際F3000選手権第4戦ペルグーサ

 ということで、日本の“自動車レース村”に未来はないと確信していたタキ井上は、全日本F3000には見切りをつけて、1994年の国際F3000選手権参戦を目指して1993年7月に再び渡欧した。イタリア・シチリア島で同選手権・第4戦開催中のアウトドローモ・ディ・ペルグーサへ足を運び、当時のトップチームだったクリプトンエンジニアリング以下、すべてのオーナーや代表に挨拶して名刺を配りまくった。

 そうした僕の行動に対する全チーム首脳の反応はと言えば……。「は? あんた誰? 話にならんよ」と鼻で笑われた。「あんた、何を言っているの? ここは国際F3000だよ」と呆れられた。唯一知り合いの居るチームでも、「そりゃあ無理だよ」と言われて、日本からわけのわからないドライバーがいきなり現地へ行って次々に断られても、「まー、なー」という感じで落ち込みもしなかった。

井上隆智穂が訪れた1993年国際F3000第4戦ペルグーサ。このレースではデイビッド・クルサード(パシフィック・レーシング)がF3000参戦時代唯一の勝利を飾っている
井上隆智穂が訪れた1993年国際F3000第4戦ペルグーサ。このレースではデイビッド・クルサード(パシフィック・レーシング)がF3000参戦時代唯一の勝利を飾っている

 そのペルグーサ訪問前だったか後だったか途中だったか、シアーズには僕の国際F3000参戦の可能性を知らせていた。そしてイギリス・ノーフォークのパブで待ち合わせの約束を取り付けたら、ジーンズを履いた田舎のおにいちゃんといういでたちで彼はその店に現われた。来店早々に彼は、「タキ、お金はあるのか?」と訊いてきた。「もちろん、お金はある」と答えましたよ。そうしたら彼は、「よし! スーパーチームを作ってやる!」と。

 でも、当時の彼はフォーミュラ・ボグゾールくらいのチームを運営しているくらいのショボイ感じだったのは間違いない。いまで言えば、フォーミュラ・リージョナルにも到達していない。つまりFIA-F4参戦チームがいきなりFIA F2参戦チームを作るようなもの。当時のタキ井上は無知の人間の強み、すなわち無謀の極みにあったのだろう。「スーパーチームを作るぜ!」というシアーズの言葉にシビレてしまったタキ井上は、彼にすべてを任せようと決めたわけだ(汗)。

 まず、シャシーはレイナードとローラの二択だった記憶がある。もちろん、前年度のチャンピオンシャシーであるレイナードに決めるのはたやすかった。問題はエンジンだ。当時はフォード・コスワースACかザイテック・ジャッドKVかというこちらも二択だったが、1992年まで国際F3000を戦っていた無限ホンダの可能性にも一縷の望みを託していた。実際に無限から再び国際F3000用エンジンを引き出す可能性を探っていたが、「そんな古いエンジンじゃだめだ」とシアーズに言われて“はい、それまでよ”。付け加えれば、1993年の全日本F3最終戦で、「会社として再びヨーロッパで国際F3000へエンジンを供給するのは無理」と無限の本田博俊さんから告げられたハナシも書いておきたいと思う。

1994年国際F3000開幕前テストのデイビッド・シアーズ(左)と井上隆智穂(右)。井上は全日本F3時代のレーシングスーツを着用
1994年国際F3000開幕前テストのデイビッド・シアーズ(左)と井上隆智穂(右)。井上は全日本F3時代のレーシングスーツを着用

 こうしてタキ井上はシアーズとともに、日本の英会話学校であるノヴァの資金を元手に、スーパーノヴァ・レーシングという国際F3000チームを立ち上げた。レイナード/フォード・コスワースACというクルマで、僕はヴィンチェンツォ・ソスピリをチームメイトに据えて、1994年の国際F3000に参戦したのであった。このスーパーノヴァは、FIA F2の前身であるGP2に2011年まで参戦し、A1GPやAUTO GPなどでもそれなりに実績を残した素晴らしいスーパーチームだった。なにしろ、新規チームにもかかわらずソスピリは1994年の国際F3000でドライバーズランキング4位、翌1995年にはドライバーズチャンピオンに輝いたのだ。

1994年国際F3000選手権に参戦するスーパーノヴァ・レーシングのヴィンチェンツォ・ソスピリ。翌1995年にはシリーズタイトルを獲得する
1994年国際F3000選手権に参戦するスーパーノヴァ・レーシングのヴィンチェンツォ・ソスピリ。翌1995年にはシリーズタイトルを獲得する

 一方で、タキ井上は1994年の国際F3000でドライバーズランキング21位、最高位はポルトガル・エストリルでの9位に留まるわけだが、同年11月に鈴鹿サーキットで開催されたF1第15戦日本GPにシムテックF1からスポット参戦しちゃうのである(汗)。予選はポールポジションを獲得したミハエル・シューマッハー(ベネトン)から8秒近く遅れてギリギリ予選通過となるドベの26番手。予選落ちしたパシフィック・レーシングF1の2台は、そもそも決勝を走らせるつもりが無かったというのは後で聞いた話である(汗)!

1994年F1日本GPでF1デビューを果たした井上隆智穂(シムテック)
1994年F1日本GPでF1デビューを果たした井上隆智穂(シムテック)

 決勝は豪雨に見舞われて、タキ井上はレース序盤に最終コーナーでスピンからのクラッシュ。ほぼ同じ個所でクラッシュした片山右京(ティレル)のクルマに危うくぶつかるところだった。では、なぜこんな僕が1995年のF1でフットワーク(アロウズ)F1のレギューラーシートを獲得できたのか? もちろん、そこにはデイビッド・シアーズのとんでもない人脈と力量があったわけで、その話は次回・後編でお届けしたいと思う。乞うご期待!

1995年F1第1戦ブラジルGP 日本人4人目のフルタイムF1ドライバーとなりフォトセッションに臨む井上隆智穂
1995年F1第1戦ブラジルGP 日本人4人目のフルタイムF1ドライバーとなりフォトセッションに臨む井上隆智穂

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