今や”最古参”41歳となったアロンソが、F1デビュー年に見せた輝き。ミナルディ元オーナーが語る19歳の頃「王者になる運命を持っていると感じた」
ミナルディF1最後のチームオーナーであるポール・ストッダートが、F1のポッドキャストに登場。フェルナンド・アロンソが2001年に19歳の若さでF1デビューした時を振り返り、当時から「将来チャンピオンになるのは間違いない」と考えていたことを明かした。
今季アストンマーチンに移籍し、開幕から2戦連続で3位入賞を果たしているアロンソ。現在41歳と、若年化が進む最近のF1にあって最古参ながら、イキイキとした走りを披露。今年は速いマシンAMR23を手に入れたこともあってか、若返ったようにすら見える。もちろん、経験からくる老獪さも併せ持っており、他のドライバーにとっては厄介な存在だろう。
そのアロンソがF1にデビューしたのは、2001年のこと。当時のアロンソはまだ弱冠19歳の若者だった。
アロンソが当時加入したのはミナルディ。ミナルディはイタリアのプライベーターとして愛される存在ではあったものの、下位を走るのが常。しかも2001年といえばミナルディの歴史の最晩年であり、戦闘力としても資金的にも、かなり苦しい状況だった。
その結果マシンはなかなか出来上がらず、アロンソは当時のマシンPS01をほとんど走らせることなく、デビュー戦のオーストラリアGPを迎えた。そして開幕直前にようやく組み上がったPS01を駆り、予選を19番手で通過。決勝では2周遅れながら、12位でフィニッシュしてみせた。
「私の見解が定まった最初のレースは、2001年のメルボルンだ。そのマシンは、直線だけのテストを1回だけ、しかも50kmしか走っていないマシンだった。それだけだったんだ。でも彼はそのマシンを飼い慣らし、12位でフィニッシュしたんだ」
またストッダートは、その年の鈴鹿サーキットでの日本GPも、印象的なレースだと語った。
アロンソは当時、すでに翌年からルノーのテストドライバーになることが決まっており、日本GPはミナルディでの最後のレースだった。このレースでアロンソは、予選こそ18番手だったものの、決勝ではジャック・ビルヌーブ(BARホンダ)とハインツ-ハラルト・フレンツェン(プロスト)の間の11位。決勝中のファステストラップも、ジャガーのペドロ・デ・ラ・ロサやBARホンダのオリビエ・パニスよりも速い14番手だった。
ストッダートはこの猛烈なペースにより、アロンソがチャンピオンの器であるという思いをさらに確固たるモノとしたと語る。しかしこのペースは、ウォームアップでのある誤解が引き金になったかもしれないという。
「別のレースを挙げるなら、それは2001年の鈴鹿だ。当時はまだ、日曜日の朝にウォームアップ走行があった。その年限りでチームを去るドライバーがいる場合には、このウォームアップでマシンの搭載燃料を減らし、彼らに任せるのが伝統だった。彼らに”栄光のラップ”を走らせるんだ」
「私もそれに同意していた。しかし日曜日のウォームアップ走行の時間中、私はチーム代表会議に呼ばれた。すると何らかの理由で、フェルナンドと彼のエンジニアは、”栄光のラップ”を走ることに同意しなかったんだ」
「彼らはマシンに燃料を注入した。だからフェルナンドは、栄光のラップを走ることができなかった。フェルナンドが不満を言うことはほとんどなかったが、その時はさすがに不満を言っていた」
「彼は私のところにまっすぐやってきた。そんなことになっているなんて、私は知らなかったんだ。そして彼はこう言った。『僕は怒ってはいないけど、彼らは僕のマシンに燃料を入れたんだ』。それに対して、私はこう答えた。『見てくれ。私はそれについて、何もできないんだ。私は君に、栄光のラップを走らせると言ったのに……申し訳ない』とね。でもフェルナンドは、そのままにしておくつもりはなかったようだ」
そして決勝での素晴らしい走りが披露された。
「彼の素晴らしさを知るなら、当時の映像を見てほしいね」
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