【鈴鹿F1優勝偉人伝/2&3】貴重な“鈴鹿1勝”をつかんだ2人。フェルナンド・アロンソ&アレッサンドロ・ナニーニ
鈴鹿サーキットでのF1日本GPを制した駿傑16人の熱闘録、2人目と3人目はひとつの系譜にあるチームでそれぞれ貴重な“鈴鹿1勝”を挙げたフェルナンド・アロンソとアレッサンドロ・ナニーニである。アロンソの鈴鹿1勝はタイトル争いにおける大きな勝利であり、ナニーニの鈴鹿1勝はF1キャリア唯一の勝利にもなった。
(※本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)
■2006年ウイナー:フェルナンド・アロンソ
先頃、今季2022年限りでのF1引退を決めたセバスチャン・ベッテルの後任として来季のアストンマーティン移籍が決まったフェルナンド・アロンソ(現アルピーヌ)。41歳になっても、勝利への意欲は依然として旺盛だ。
F1通算32勝のアロンソ、鈴鹿では2006年に勝っている。この年、当時のルノー(現在のアルピーヌの祖にあたるチーム)で走っていた若き王者アロンソは鈴鹿の次、最終戦ブラジルGPで2年連続王座獲得を決めるのだが、鈴鹿での勝利はタイトルに直結する大きな1勝だった。
ブリヂストン対ミシュランのタイヤ戦争最終年でもあった2006年、アロンソのライバルはフェラーリのミハエル・シューマッハー(当時、ルノーはミシュラン、フェラーリはブリヂストン)。タイトル争いは最終戦ひとつ前の鈴鹿を迎えた時点で両者同点首位という状況になっていた。
ただ、シューマッハーが追い上げてきての同点であり(優勝回数の差で厳密にいえばシューマッハーが首位)、アロンソは連覇に向けて厳しい立場に置かれていた。日本GPもシューマッハーが有利に戦いを進めていく。
レース後半、36周終了時に2度目のピットストップをしたシューマッハーはトップの座を守ってコース復帰。1周前にピットストップしていたアロンソは2番手だ。当時は1〜8位に10-8-6〜1点の時代、このままいけばシューマッハーが2点をリードし、最終戦をアロンソに勝たれたとしても勝利数の差で最終戦2位ならシューマッハーが自力王座という状況になる、誰もがそう思った。しかしーー。
37周目(ピットを出た周)、シューマッハーのマシンが白煙を吐きスローダウン、その脇をアロンソが駆け抜けていくシーンが立体交差の下付近で展開されたのである。
シーズン中に速さを増してきていたフェラーリに、最後の土壇場で信頼性の問題が出てしまった。シューマッハーはリタイアでアロンソが鈴鹿初制覇、チャンピオン争いはアロンソの10点(1勝分)リードで最終戦に向かうこととなった。ほぼ決まり、である。
最終戦ブラジルGPでもシューマッハーはマシントラブルに襲われて予選10位。優勝が逆転王座の最低条件であるなか、懸命の追い上げも4位までだった。アロンソが2年連続戴冠を果たしている(最終戦、アロンソは2位。優勝はフェラーリのフェリペ・マッサ)。
アロンソにとって、まさに起死回生の勝利だった2006年日本GP。ライバルのマシントラブルによるラッキーという見方もできるが、そうとは言い切れない。
鈴鹿では予選からフェラーリが万事優勢に戦っており、彼らがマッサ、シューマッハーの順でグリッド最前列を占拠したのに対し、アロンソは予選5位だった。決勝でもフェラーリは1-2キープで逃げていく(3周目からはシューマッハーが先頭に)。
しかしアロンソは、予選好調だったトヨタ勢を1周目と13周目に抜き、1回目のピットストップを終えた段階ではマッサの前、2番手の座を確保する(マッサが第1スティントでスローパンクチャーに見舞われていたことも影響)。首位シューマッハーにも大きくは離されずについていき、相手にラクをさせていなかったことがあの衝撃的展開の遠因になった可能性はある。
アロンソの執念、あきらめない気持ちと、それを走りに転化して表現できる実力が、鈴鹿初勝利と事実上のタイトル獲得決定を呼び込んだ、そんな名勝負だった。
なお、アロンソは“鈴鹿1勝”ながらF1日本GP通算2勝である。2008年、マクラーレンからすぐルノーに出戻った年に富士スピードウェイでの日本GPを制覇している。富士と鈴鹿、両方のF1日本GPを勝っているのはアロンソとルイス・ハミルトンのふたりだ。
■1989年ウイナー:アレッサンドロ・ナニーニ
2006年のアロンソの鈴鹿初制覇は、当時のルノーにとっては通算4回目の鈴鹿勝利ともいえた。前身のベネトンが鈴鹿とは好相性で、1989、1990、1995年と勝っていたからだ。
(※2006年のアロンソを最後に、この系譜のチームは鈴鹿で勝っていない。日本GPに関しては2008年の富士で“通算5勝目”。また、ベネトンは1994〜1995年にTIサーキット英田、現・岡山国際サーキットで開催されたF1パシフィックGPを連覇しており、この系譜のチームは日本開催のF1で通算7勝)
1989年、ベネトンの鈴鹿初勝利は実に劇的だった。
この年のF1、本来の主役はマクラーレン・ホンダのアラン・プロストとアイルトン・セナ。王座を争う両雄は鈴鹿で緊迫感に満ちた優勝争いを展開し、終盤47周目のシケインでついに同士討ちを演じてしまう。
プロストはリタイアしたが、セナはコースに戻った。そして48周目にピットインして、プロストとの接触が起因で壊れたノーズを交換、ここでトップに立ったのがベネトン・フォードのアレッサンドロ・ナニーニだった。
しかしセナは猛追、51周目のシケインでナニーニをパスし、53周のレースをトップで終える。でも、プロストとの接触後のコース復帰時にシケインを正しく通過していなかったとして失格処分を受けてしまう。
1989年F1日本GP、鈴鹿の表彰台の中央に立ったのはナニーニだった。嬉しいF1初優勝である。
そしてこの勝利は、ナニーニにとってF1唯一の勝利にもなるーー。
翌1990年、ナニーニは後半戦絶好調で、フェラーリの次期ドライバー候補にもなるなどするが、彼はイタリア人ドライバー最高の名誉ともいえるチャンスを蹴る格好で、ベネトン残留の道を選ぶ。慣れ親しんだ仲間と頂点を狙うことにやりがいと可能性を感じているようだった(フェラーリの出した条件が良くなかったから、などの理由も伝えられている)。
いずれにせよ、ナニーニが繰り上がりではない優勝を遂げるのもそう遠い話ではないと思われていた。ところが1990年日本GP目前のヘリコプター事故でナニーニは右腕切断という重傷を負う。鈴鹿での初優勝からほぼジャスト1年後に、彼のF1ドライバーとしての未来は失われてしまったのだ(凄まじい努力でレーサーとして復帰、DTMに参戦するなどしたことは素晴らしかった)。
鈴鹿F1での勝利が1回というドライバーはアロンソ、ナニーニら9人いるが、その1勝=F1キャリア1勝というのはナニーニだけである。セナ失格の一連のドラマとも相まって、1989年の日本GPは様々な意味で記憶に残る一戦となっている(このレースについてはセナ登場回でも触れる予定)。
なお、ベネトンはナニーニの代走にロベルト・モレノを起用した1990年日本GPで1-2フィニッシュ、鈴鹿連覇を成す。このことも1989年鈴鹿のドラマ性の深さ、厚みを増している要素である(1990年のレース詳細については勝者ネルソン・ピケを紹介する回にて)。
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