ルーベンス・バリチェロが語るフェラーリ時代。最高のマシンF2002と葛藤の日々
2022年シーズンのF1世界選手権、フェラーリは復活を遂げレッドブルと選手権争いを繰り広げている。好調の要因として、グラウンドエフェクトカー規定が復活した2022年のF1マシン造りに、少なからず約40年前に同じレギュレーションのクルマのデザインを経験していたロリー・バーンの貢献があるはずだ。
そんなバーンとフェラーリの関係を語る時、やはり2000年代序盤のダブルタイトル5連覇は無視できない。その間にミハエル・シューマッハーが成し遂げた偉業、それを支えた5台クルマはすべてバーンによるものだ。
ちょうど20年前の2002年、バーンはそれまでのコンセプトを大きく変えた『F2002』をデザインした。見栄えが大きく変わったわけではないので、第三者からすればドラスティックに変わった印象を受けづらいクルマだったが、当事者たちからするとそれまでとは劇的なコンセプトの変化が、『F2002』にはあった。
その結果、2002年シーズンのフェラーリは無敵の強さをほこり、シューマッハーは7月中にタイトルを決めてしまうほど。『F2002』の完成度、シューマッハーの強さだけがクローズアップされがちの2002年フェラーリだが、バーンはルーベンス・バリチェロの貢献があの時代のマラネロの強さを支えていたといい、バリチェロは過小評価されていたと擁護する。シューマッハーがいなかったら、バリチェロが何度もワールドチャンピオンになれていたと言うほどだ。
シューマッハー5連覇の影で、立場上アシストの役割を強いられたバリチェロに対する世間の評価はセカンドドライバー以外になかった。しかし、初優勝を記録、選手権2位も経験も経験したフェラーリ時代は、彼にとってのF1キャリアのハイライトであったことは間違いない……。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.40では、2000年代最強フェラーリを象徴する1台の『F2002』を特集する。
このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.40 Ferrari F2004』に掲載されるルーベンス・バリチェロのインタビューをお届けする。彼の2002年シーズンの成績は、4勝しランキングは2位。この時点での彼のキャリアベストであるが、それには紆余曲折あった。世間は最初からセカンドドライバーとしてバリチェロを見ていたために、与えられた状況下で彼がベストな仕事を成し遂げたと評価するものが大半であろうが、本人にしかわからない葛藤や屈辱、我慢があったことは間違いない。20年経った今だから語れる本当の気持ちとは……。
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■見事に性能を移行できた
──はじめに、F2002について最も印象に残っていることを教えてください。
「今でもよく覚えているのは、マシンが劇的に改善されたと聞いて、実際にサーキットに持ち込まれたものが、そのとおり進化していたことだ! 1.5秒くらい速くなると言われていたんだ。最初は信じられなかったね。自分がドライブしてきたマシンの中で、風洞実験からコースデビューするまでに、これほど見事に性能を移行できたクルマはほかにないと思ったよ」
──どのようにその進化を感じたのですか。
「モナコ仕様のマシンが、モンツァのストレートを飛ぶように速く走り抜ける、そんな感じだった」
──2002年初戦で新車を与えられなかったのは不満でしたか。
「つらかったよ。F2002のポテンシャルは驚異的だと思っていたからね。ただ、新しいギヤボックスを搭載したせいでこのような決断が下されたに違いないと思っている。フェラーリの信頼性という話になると、まったく別だった」
──あなたの母国ブラジルGPで、ミハエル・シューマッハーだけにF2002が与えられたことに苛立ちを感じたのでは?
「本当に……正直に打ち明けよう。これまでの人生で、不愉快に思ったり落ち込んだりすることが、ほんの些細なことであったとしてもたくさんありすぎて、しまいにはあまり深く考えないようにしていた。だからよく覚えていない。ブラジルで旧型のマシンを与えられた記憶がないんだ。思い出せないのだとしたら、間違いなくそれがつらい出来事だったからだ」
──イモラでようやくあなたにも新車が与えられました。
「予選ではほんのわずかな差でミハエルの後ろにつけたが、この年は自分のエンジンの調子があまり良くなかったので、ミハエルのTカーに乗らなければならなかった。予選でブローしかけていたらかね。ところが、そのTカーが素晴らしかったんだ。最終的にはTカーをドライブしたことで得たものは多かったね」
■重要なのは「言葉」
──オーストリアGPでは、シューマッハーに勝利を譲るように指示されて物議を醸しましたね。あなたのF1キャリアの中で、最もつらい時期だったのではありませんか。
「はっきり言うと、私たちはF1の歴史を変えたと思っている。長い間、私がどれほどつらい思いをしてきたのか、周囲の人たちは徐々に理解するようになった。ただ、私にしてみればその前年の同じオーストリアGPでミハエルにポジションを譲らなければならなかった時の方がつらかった。デビッド・クルサードが優勝したレースだが、2番手につけていた私に、チームはミハエルとポジションを入れ替えるように指示した。結局、彼が2位、私が3位になった。レース後、チーム側と話し合った。私がトップに立っていたとしても、同じように指示を出したかと聞いてみたんだ。すると彼らは『絶対にそれはない。トップの座を譲れと頼むようなことはしない』と答えた。それならいいと、私は納得したよ」
「ところが、1年後にまさしく、そのような状況になった。無線でやりとりしている間、私は1年前の会話のことに触れたが、彼らは何も答えられなかった。何よりも私にはそれがショックだった。そのうち、私の契約書ではなく、ミハエルの契約書にはそれが明記されているということを知った。私の契約書には、彼に先を譲らなければならないといったことは何も書かれていなかった。そこで、私は周囲に隠し立てすることなく、堂々と指示されたことをやろうと決めた」
──チームがその一件から立ち直るのに、かなり時間がかかったのでしょうか。
「言うまでもなく、最も苦しんだのは私だった。人間は自分の気持ちや言葉に従わないものだというのを知るのは、精神的につらいものだからね。私は元々理性よりも感情を優先する方だ。つまり、私にとって重要なのは言葉だ。多くのことに関して、契約書よりも口頭で伝えられることの方が重みを持つという感じだった。だから、とてもつらかった。ただ、そのうち少しずつ優勝できるようになっていった」
──数レース後のニュルブルクリンクで優勝しました。
「あのレースで、どうしてチームがミハエルを先に行かせるように指示しなかったか分かるかい? 私が従わないと分かっていたからだ。そんなこともあったが、レース後、月曜日に移動することになっていたので、日曜日はニュルブルクリンクに泊まらなければならなかった。ミハエルも同じだった。ほかにすることが何もないので、私たちはメルセデスのパーティーに侵入することにしたのだが、あれは夢のような経験だったね。あの日、さまざまなドイツ語を学び、私の勝利を特別なものにしてくれたよ」
■12個のトロフィー
──とても信頼性が高いマシンでしたが、バルセロナではギヤボックスのトラブル、フランスではイグニッションと、2回ほど直前でスタートできなかったことがありましたね。
「その2レースは出走せずと記録されている。自分に非はないのでこれは受け入れがたかった。スタート時、ちゃんとその場に私はいたんだ。何もトイレに行ったまま、戻ってこなかったわけじゃないのにね」
──ハンガリーでも優勝を飾りましたが、何かそのときの思い出はありますか。
「そもそもハンガリーが好きじゃなかった。でも、気持ちを切り替えたんだ。ハンガリーのどこかに良いところを見出さない限り、きっとうまくいかないだろうし、うまくいかないのは、この場所が好きじゃないからということになってしまうと思ったからだ」
「そこで、その土地で楽しみを見つけ、地元の人々とも触れ合うことを心がけてみた。その後、サーキットのコーナーがひとつ改修されると、『いいじゃないか、気に入った』と自分に言い聞かせた。そして、ハンガリーで優勝した時には、『やった。これでさらに強くなって、一歩前進できた』と自分を鼓舞したよ」
──モンツァでの勝利は格別でしたね。
「まったく別次元だった。さらに2002年と2004年の勝利がよりかけがえのないものになったのは、2009年に白いマシンに乗ってモンツァで優勝した時だった。ファンの反応は多くの友人に祝福されているようだった。あのとき、私はただのフェラーリ・ドライバーではなかったと実感できたよ」
──インディアナポリスで、ミハエルはリードしていながら写真判定に持ち込もうとしたことで、あなたの勝利は物議を醸しました。
「あのレースについて実際にふたりで話したことはなかったけれど、かなりの接戦だったということは覚えている。実は、私の方がミハエルよりもペースが速いコースがいくつかあった。オーストリア、アメリカ、シルバーストンなどだ。それにあの日、私は自分の力を出せば勝てると思っていた。そして終盤、いきなり彼は少し左に寄ってペースを落とした。隣に並ぶスペースができたけれど、私も少しペースを落とした。自分でどうしたいのかよくわからなかったからだ」
「それから、ミハエルは少し強めにブレーキを踏んだ。私は行けると思ったが、スロットルを開けるのを少しためらった。ただ、勝ちは勝ちだと思い直し勝ちに行った。彼が勝ちたいと思わないのなら、私がプッシュすればいいだけだ。互いに同じように考えていたこともあり、最後はふたりともスロットルを開けた。写真判定になるよう調整しようとしても、そう簡単にできるものじゃない」
──気まずい勝利だと思いましたか? 少なくとも、シューマッハーはあなたにオーストリアでの1勝という借りがあったわけですが。
「もちろん、そんな勝ち方はしたくない。ただ、ミハエルは私が彼にしたようなことを自分でもやってみたかったのだろう。つまり、借りを返したかったのさ。結局私はF1で11勝したが、持っているトロフィーは12だ。アメリカGPのトロフィーをミハエルにあげなかった。私はオーストリアの時と同じようにするつもりだった。カップはミハエルのものだから渡そうとしたのだが、彼は受け取らなかった。そのとき、確かに君はたくさん持ちすぎているからと、ミハエルに言ったのを覚えている。だからこれも私のものになった。ありがたく頂戴したよ。まだ小さかった息子のエドアルドがカップの中に入っている写真が残っている」
■唯一無二の経験だったフェラーリ時代
──20年を経て、フェラーリ時代はどうでしたか。
「フェラーリの一員だったことを誇りに思っているよ。当然、成功を収めるために全力を尽くそうとした。いつかはチームが私の仕事を認めてくれて、望むことすべてを自由にやらせてもらえる日が来るだろうと自分に言い続けてきた。ところが、そのうちそれは叶わない夢だとわかった。だから、チームを離れたのだ」
「とはいっても、間違いなくフェラーリ時代は私のキャリアのハイライトだった。エンジニアとの関係は良好で、気持ち良く仕事をしていたよ。最後は自分とミハエルのためのタイヤ開発を担ったほどだ。つまり、チームから信頼されていなかったわけではなく、実際はかなり頼られていたんだ。ただ、チームが守りたかったのはミハエルだけだった。自分はこれ以上入り込めないとわかったよ。だから、潮時だと思いチームを去ることにした。とはいえ、唯一無二の経験だったし、間違いなく最高の時間を過ごすことができたよ」
──あの頃のフェラーリはドリームチームだと、誰もが言っていましたが、ジェームス・アリソン、マッティア・ビノット、アルド・コスタといった人材は、今日、さらに重要なポストに就いていますね。
「一緒に仕事をした中で、ジェームスは飛び抜けて愉快な男で、信じられないくらい頭が切れた。あのメンバーと一緒に仕事をしたのは、素晴らしい財産になった。そう思うと、チームを離れるという決断をしたのは、本当にもったいなかった。実際、フェラーリでの日々は楽しかったからね」
──F2002はどのようなマシンでしたか。
「ドライブした中では、最高の一台だった。もちろん、2004年のマシンも最高にコンペティティブだった。2003年のマシンはミハエルには扱いにくかったようで、実際、私のスタイルにより合っていた。2003年は不具合も多く何度もクラッシュした。あのシーズン、ミハエルは首に問題を抱えていたのではないかと思う。1月と2月、ほぼ毎日のように私だけがテストを行なっていたよ」
──F2002とブラウンGPのクルマは同格だと思いますか。
「そうだね、難しいところだけれど、2002年のマシンはベースがとても良かった。すでに言ったように、これまで知っている中で、風洞からコースへの移行が最もうまくいった例だったね」
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『GP Car Story Vol.40 Ferrari F2002』では、今回お届けしたバリチェロのインタビュー以外にも見どころ満載。F2002の生みの親であるロリー・バーン、その最強マシンとシューマッハーの持てる力を最大限に生かす戦略を編み出したロス・ブラウン他、空力のニコラス・トンバジス、バーンの右腕アルド・コスタ、秘密兵器のギヤボックス設計者のジョン・サットンなど、車体開発のキーパーソンたちにも話を聞き、さらにはそんな彼らを集めドリームチームを築いたジャン・トッドも登場する。
『GP Car Story Vol.40 Ferrari F2002』は現在発売中。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12378)まで。
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