【鈴鹿F1優勝偉人伝/完結編】日本勢の鈴鹿F1好走史。亜久里&可夢偉の3位、上位多数の中嶋悟と琢磨
鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPを制した者の数は16人、そのなかに日本人ドライバーは含まれていない。しかし、勝利には至らずとも、母国戦で多くの好走劇が演じられてきたことは事実だ。
鈴鹿F1優勝偉人伝、その完結編は『鈴鹿F1健闘日本人伝』である。今年、自身初の鈴鹿F1凱旋参戦を迎える角田裕毅の活躍に期待しながら、日本勢の挑戦、そして好走の軌跡を振り返ってみたい。
(※文中敬称略。本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)
鈴鹿サーキットでF1日本GPの決勝レースを走った経験がある日本人ドライバーは何人いるのだろうか? 手元集計ということになるが、現段階で12人のはずだ。その12人の鈴鹿F1での決勝最高成績は以下のとおり。
鈴木亜久里:3位
小林可夢偉:3位
佐藤琢磨:4位
中嶋悟:6位
片山右京:11位
鈴木利男:12位
井上隆智穂:12位
中嶋一貴:15位
山本左近:16位
野田英樹:リタイア
中野信治:リタイア
高木虎之介:リタイア
こうして並べると、琢磨の4位には「彼も3位では?」と違和感を覚えてしまう方がいるかもしれないが、あらためて言うと、これは鈴鹿F1に限った場合の最高成績である(琢磨の3位は2004年アメリカGP)。
また、1987年以降の日本人F1ドライバー、場所を問わず1戦以上の決勝出走経験がある者のなかでは、2006年にスーパーアグリで琢磨の最初のチームメイトだった井出有治の名前がないが、彼の出場はこの年の序盤4戦のみだったので、シーズン終盤の日本GPの決勝成績は残っていない。
お気づきの方も多いだろう、上記12人のうち鈴鹿F1の決勝出走が4回以上あるのは5人だけ(亜久里、可夢偉、琢磨、中嶋悟、右京)。他の7人は決勝出走が1~2回である。F1に出場する、そして鈴鹿サーキットで決勝を戦うということにはやはり高いハードルが存在するわけで、鈴鹿F1出走実現時点で“偉業”ともいえよう。
さて、“常連組”に関しては、その多くが鈴鹿で好走していた、と考えていい。亜久里と可夢偉は鈴鹿でF1ベスト成績の3位になっているし、琢磨(4、5、6位が各1回)、そして中嶋悟(6位2回、7位1回)は安定的に上位リザルトを残していた。
日本勢のF1通算での表彰台は3位3回、そのうちの2回が鈴鹿である。1990年、亜久里はラルース・ローラ・ランボルギーニで3位に輝く。日本勢初のF1表彰台到達という大偉業だった。
当時の4強チームのうち、マクラーレン・ホンダとフェラーリが中盤までに全滅したレースとはいえ、ベネトン・フォードとウイリアムズ・ルノーは全4台が完走しているのだから、表彰台は難しかったはず。でも、亜久里は格上マシンのウイリアムズ2台に勝って、日本人初の3位表彰台をものにしたのである。ウイリアムズがタイヤ戦略を見誤るなどしたためだが、亜久里の好走がそれを誘発した、とも考えられる見事な内容だった。
可夢偉の3位表彰台は2012年(ザウバー・フェラーリ)。彼に関しては、ある意味でこの年以上に鮮烈な印象を残したのが2010年(BMWザウバー・フェラーリ)だろう。ヘアピンで鋭いオーバーテイクを連発しての7位は、戦っているなかでチャンスゾーンを見つけ、それを実際に活かせる、世界の一級品たる彼の実戦能力を見せつけてくれるものだった。
琢磨の鈴鹿ベストは2004年の4位(BARホンダ)。これは多くの観客にとって悔しい4位だっただろう。
レース中の給油が可能な時代で、ピット戦略によってスタート時のマシン重量(燃料搭載量)が違ったわけだが、レース序盤はチームメイトでマシンが重いジェンソン・バトンが、軽い琢磨の前を走るという(チームにとって)チグハグな状況が生まれ、琢磨には厳しい展開となってしまった(バトンに対して申し訳ない言い方にはなるが)。
琢磨の鈴鹿といえば、F1デビュー年である2002年の5位(ジョーダン・ホンダ)や、緊急参戦だった2003年の6位(BARホンダ)の方が総合的な印象は2004年より上かもしれない。特に2002年の5位はサーキット全体がひとつになる興奮をもたらし、勝者ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)をして「今日はふたりのウイナーがいたね」と語ったほど。素晴らしい5位だった。
日本人初のフルタイムF1ドライバー、中嶋悟も琢磨同様に鈴鹿で安定して上位に入っていた。今と違ってマシンがよく壊れたあの時代に5回走って完走3回は見事であり、しかも6位2回(1987、1990年)に7位1回(1988年)という好成績である(乗っていたマシンの面で、他の日本勢より有利だった面があるかもしれないが)。
参戦台数が多い時代でもあり、しかも入賞が6位までという厳しい“得点環境”のなかで中嶋が鈴鹿で得た計2点の値打ちは高い。特に鈴鹿F1初年度、中嶋新人年の1987年(ロータス・ホンダ)の6位1点には無限の価値がある。
1988年の7位も印象深い。予選ではロータス・ホンダの僚友でトリプルチャンプのネルソン・ピケと同タイムをマークして6位(先に出した者が上位という規定でピケが5位)。決勝スタートでストールして大きく出遅れるが、7位まで挽回してみせた。レースウイーク中に母親の逝去ということがありながらの力走でもあった。
鈴鹿F1における(現段階での)日本勢のMVPを選ぶとすれば、亜久里、可夢偉、琢磨、中嶋悟の4人から選ぶことになるが、ロングスパンでのMVP争いとなると、3位がある亜久里、可夢偉よりも、安定感が高かった琢磨、中嶋悟が上のように思える。そして甲乙つけがたいところではあるが、日本にF1を根付かせたパイオニアの功績に最大限の敬意を評し、ここでは中嶋悟を『鈴鹿F1日本勢MVP』に推したいと思う。
常連組5人のなかで、右京にだけは鈴鹿でのシングル順位がなかった。ただ、唯一の完走、ルーキーイヤーだった1992年の11位には価値の高いオーバーテイクが含まれている。この年のラルース陣営のマシン、決して高い戦闘力があったとはいえないヴェンチュリ・ランボルギーニでフェラーリを抜いたのだ。フェラーリ絶不調のシーズンだったとはいえ、素敵なシーンを鈴鹿で見せてくれた。
常連組以外のドライバーたちのトライも大いに讃えたい。また、決勝出走者リストにはその名がないが、次に挙げる3人の“鈴鹿F1挑戦”にも触れておきたいと思う。
1991年にコローニのマシンで予備予選を戦った服部尚貴、2003年にジョーダンから当時の金曜特別フリー走行に出走した本山哲、そして2019年にスクーデリア・トロロッソで金曜フリー走行1回目(FP1)を走った山本尚貴である。
服部が1991年の終盤2戦で乗ったコローニのマシンは、おそらく当時、アイルトン・セナやナイジェル・マンセルが乗っても予備予選通過はできなかったと思われるくらいに戦闘力が低かった。でも、前年(1990年)の全日本F3チャンピオンという新進気鋭が見せた挑戦者魂は、のちの国内トップ戦線での栄達を予感させるに充分なものであった。
本山と山本は国内トップ戦線で確固たる実績を築いてからの鈴鹿F1フリー走行参加。彼らがF1実戦参戦(競技セッション出走)を経験していないのは歴史の流れのなかでの不運としか言いようがないが、フリー走行とはいえF1のレースウイークという貴重な走行機会において、ふたりは超一流の能力を示してくれた。
記憶に新しいのは2019年の山本だ。当時は2014年の可夢偉を最後にF1のレースウイーク公式セッションを走った日本人選手がおらず、ある種の長期暗黒時代だった。それに(とりあえずの)終止符を打ったのが山本であった。
山本がトロロッソ(現アルファタウリ)でキッチリいい仕事をしたことは、“イタリア・ファエンツァのチーム”がのちに角田をレースドライバーとして起用するに際して良い影響を及ぼしたかもしれない。2010年代後半はF1に日本人選手がいなかった。だから、あそこで山本が成した仕事は、チームに『今の日本人選手も、やれる』ことを証明し、後輩である角田の将来的起用を間接的にアシストしたとも考えられるのではないか。
そして今年、角田は(順調なら)日本勢13人目の鈴鹿F1決勝出走者となる。先輩たちがそうであったように、大きな注目と期待が集まるだろう。熱い応援に感謝の思いを抱きもするだろう。でも、ここはいい意味で気楽に構えて、自身精一杯の走りで未来に向かって進んでいってほしい。
いよいよ間近に迫ってきた2022年のF1日本GP。レッドブルとフェラーリの4人は、誰が勝っても鈴鹿F1新ウイナー(17人目)である。角田の走りを日本で見られることも嬉しいし、セバスチャン・ベッテルの鈴鹿ラストランという要素もある。3年ぶり32回目の鈴鹿F1ではどんなシーンが展開されていくのか。楽しみは尽きない。
(*この連載企画は充分な資料等が残っていない時代のことも含むことと、その内容の性質から、事実とは解釈を異にする部分等あったかもしれませんが、ご了承ください)
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